Purity of essence

文芸全般、主に映画と書評です

ヒューマンネットワーク(マシュー・ジャクソン)メモ3

第7章群衆は賢くもなり愚かにもなり

ゴルトンの家禽品評会の話、多様性、独立性(バイアスがないこと)、集約性の3つが挙げられている。様々な批判はあるものの予測市場(群衆の知恵)はたびたび話題に上る。集団が熟慮するときにはネットワーク内を情報が駆け回るようなもので、スモールワールド性のあるネットワークでは2,3回の反復で大半に情報が届いてしまう。周囲の人間と意見を平均化していく学習方法はモリス・デグルートにちなみ、デグルートラーニングと呼ばれる。この時は固有ベクトル中心性が重要になる。この時に入り込むバイアスは自分の意見が回ってくるエコー、情報が重複してしまうダブルカウンティングがある。この二つは同時に発生することもある。これらを取り除くためにはネットワークを完全にコントロールした状態でどうやって情報が流れるかを調べてみること。どれくらいエコーとダブルカウンティングが行われたかを調べてその影響がどれくらいかを調べてみる。

中央集中型ネットワークはバイアスがかかりやすい。これはグラッドウェルの少数者の法則そのものである。フェイクニュースが広がってしまう理由も同様だと思われる。発信の場は増えているのに、責任ある報道は減っているという現実。

社会的学習ネットワークの健全性を損なわせるうえでもっとも大物なのが同類性である。

移民政策について不法移民と言うか不法就労者と言うか、税の減免について、税制改革と言うか、富裕層のための優遇税制措置と言うか、などのテキスト分析でその人の政治傾向を調べることができる。1990年まではその結果はほとんど当てはまらなかったが、最近では1分の演説を調べるだけで高い正答率を示すようになった。

現在のアメリカでは法案の賛否傾向がほぼ分断されているようになった。利害が一致しない同類性の強い集団同士が議論することで多くの国の政府が機能不全に陥っている。伝染病のように広がるミームもあるが、同類同士でつながったネットワーク内では、同類内での少数派な意見はなかなか広がらないため、同類性が伝搬を妨げるように、同類性が学習を妨げる。

テクノロジー集合知を活かせる環境も提供するが、同時に妨げる環境も増やしている。

 

第8章友達と身近なネットワークの構造

人間は身近な人間の影響を受ける。あるプログラムに参加を促す文に「〇〇人が参加を決断しました」と付け加えるだけで参加者が増えた実験がある。しかしここでも同類性が詳細な調査を妨害している。同じように行動する理由は、他人に影響を受けたからなのか、それとも、そもそも同類性により、同じような行動を起こす人間同士で固まっているだけなのか?

知を学ぶ方法には3つの方法がある。高貴な反省、たやすい模倣、苦い経験(孔子

当然、悪い影響も受けるし、情報の外部性により、自身の情報は無視して、集団に従ってしまうから、少し悪い方向に先導されればあっという間に広がってしまう懸念もある。

自分の行動と周囲の行動を一致させるとゲーム理論でいう複数均衡と言う安定した状態に陥る。いまだにタイプライター時代のQWERT配列を使っているのがいい例。

これは学習ではなく、模倣が原因である。

汚職(犯罪?)は反社会的行為ではなく、実はむしろ社会的行為である。なぜなら周りの人が秩序を軽んじていれば、自分も犯罪を犯す可能性は高くなるから。ここでも同類性が重要なファクターとなっている。

クラスタリングについて。現代人の人間のクラスタリング係数は、インドの農村のような濃密な集団と比較すると、極めて低い。クラスタリングは信頼とサポートにも関係がある。監視役をつけることで貯金額をあげた実験がある。監視役がネットワーク内のどのような位置にいるかでもさらに変わる。

中国ではこのような社会関係資本はグアンシ、と呼ばれる。中国でのビジネスはコネが重要なのだ。科学界でも同郷のコネが確認されている。しかしコネは負の側面もある。

身近な他人を見れば当人もどういう人間かが推測されてしまう。フェイスブックのデータを用いて、特定の二人が夫婦かどうかを判定する実験がそれなりの成績を収めた。

何回かの働きかけや交流がないと取り入れられないような行動が拡散するかどうかは局所的な補強(クラスタリング)が強く影響する(大域的構造は個人ではどうにもならないが、局所的構造は個人で何とかなる、とどこかで聞いた気がする)

信頼のネットワークがあれば伝わりにくい情報も伝わりやすくなるだろう。信頼と言うしがらみもあるが。

 

第9章グローバリゼーションと変化するネットワーク

接続性は巨大な平衡装置。市場価格はあっという間に世界中に伝搬し均一価格となる。ネットワークがどう形成されるかを把握しておくことで、ネットワークが個人に与える影響も理解できるようになるだろう。個人はネットワークをよくするために関係を構築しているわけではない。時には個人と集団の利益が衝突する。関係構築が容易になったことで起こりうる影響は良いものも悪いものある。

良いものの例としては戦争と平和がある。国家間の貿易関係が複雑になったことで、経済の結びつきが強い国家同士は戦争できなくなった。20世紀後半で貿易は取引相手の数や取引量が指数関数的に増えている。それに呼応して戦争回数が減っている。

 

グローバル化とは自分の考えを見直し、ほかの国や文化をの考え方に目を向け、それらに対して自分を開くということだ、普通の人にとっては楽しいことじゃない(ハービー・ハンコック

 

都市化はどんどん進んでおり、都市化された街に住む人の数は増加の一路である。都市と農村ではネットワーク構造が異なるので、都市化が進むと農村の規範や文化が破壊される。マイクロファイナンスを導入した村では明らかにネットワーク密度が減少した。一部の人たちにとっては、都市化の恩恵より、社会関係資本の喪失のほうが大きいだろう。

ヒューマンネットワーク(マシュー・ジャクソン)メモ2

 第五章分かれて住む

隔離は上から押し付けるもの、区別は対等なものらが自ら分かれていくもの(マルコムX)
インドのカースト制やアメリカの人種間の交流など、同類性は根強い。狩猟採集生活を行っていた最古の人類の間でも同類性が存在してた痕跡がある。

このあたりはある意味、多くの人がああそうだろうなと思っていたことがインターネット内の行動で暴かれたということだろう。

トーマス・シェリングゲーム理論の観点から分断の裏にある理論を構築した。ライフゲームに近いこの理論はシンプルだが、同類性による分断を強力に説明している(シェリングの分居モデル)

これは小さな偏りでも巨大な力になるということでもある。

同類性は個々の好みだけでなく、集団間の敵意や不信もまた影響を及ぼす。敵意や不信が強まれば集団内の同類性は強くなる。これはテロ事件が移住を促す事実が示している。スタンフォード監獄実験はアイデンティティが集団間の分断を煽るということがよくわかる。(この例では看守というアイデンティティと囚人というアイデンティティ

民族間がどれくらい分かれて住んでいるかを示す分離指数によると、分離指数とGDPは統計的に優位な相関関係があった。分離指数が低いほどGDPが高い。(これは民族だけではなく、世代や収入などの分離指数にも応用できるかも)

理由は分離度が高いと個々のグループが特定の利益をもってしまい、政治が対立的になってしまうからだと推測される。

 

第6章非移動性と不平等、ネットワークのフィードバックと貧困の罠

世代間所得弾力性(Aさんの親とBさんの親の収入の差がどれだけA、Bの子供に影響するかということ)が非移動性のいい指標になっている。また非移動性と不平等性は相関するということを示したグレートギャッツビー曲線がある。著者は不平等は非移動性による結果である、という観点で話を進める。根源的として同類性があり、同類性への圧力が機会や行動を狭め、その結果として、不平等が生まれる、ということ。

 

善い政治が行われている国では貧困を恥ずべきであり、悪い政治が行われている国では富裕を恥ずべきである(孔子

(しかし政治の良し悪しがわからなければ、そもそもどっちを恥じるべきかわからない気もするが)

ジニ係数の考案者はファシスト党員で優生思想の持ち主だった。そんな人物が不平等を示す指標の名前になるとは実に皮肉な話である。

ジニ係数は歴史的にはダイナミックに変化している、産業革命の時期に一気に不平等は広がった。その後、大戦と民主化と教育の質などにより、不平等は少しづつ改善してきたが、1980年代、テクノロジーの発展により、労働需要が押し下げられたことで再び不平等が広がった。生産性、無人化の両面でテクノロジーは職を奪っていく、欧米の中産階級の減少はグローバル化ではなく、テクノロジーによるものだと著者は主張している。実際にアメリカの雇用は製造業や農業では落ち込んでおり、新たに増えている雇用はサービス業ばかりである。

不平等が一気に広がった結果親世代よりも高い収入が得る子ども世代の割合はどんどん減っている。

トップ1%の富裕層であっても、その収入の3分の2は労働収益であるという事実、格差の問題は資産格差ではなく収入格差である。

高い収入を得るためになぜ高い教育を受けようとしないのか?その理由は非移動性にある。ここでアメリカの現状がたっぷり説明される。

資本はどんなものであれおおむね変換が可能だということ(金があれば教育を受けられるなど)ということは親から子へ渡すことも可能だということ。

職もネットワークが重要(これはグラノヴェッターの弱い紐帯理論と同じだろう)求人広告よりも知人の紹介から採用した人間のほうが長続きする。採用する側もわかっているから、知人のつながりを重視し、ツテを頼った採用をしようとする。知人の数は採用面接の成否にはあまり関係ないが、面接機会の回数には多くの影響を与えるだろう。機会が多ければ職を得る可能性も高まり、選択肢が増えればより良い職を得ることにもつながる。さらに同類性が加わる。つまり失業率の高い集団に所属すると、職を得る機会にはつながらない、逆もまたしかり。

さらに雇用主は同類性を用いて人材を探す。つまり優秀なプログラマーが欲しいならプログラマーに聞くのが一番だ。そして推薦やコネを使うことになる。

ドロップアウトゲームというシンプルなロジックで同類性が低いほうが伝搬は起こりにくい。同類性が高ければ高いほど同類内で影響を受けやすい反面、異なるグループへの影響は小さくなる(これは貴族平民分け隔てなく伝染病が伝搬する理由でもある、伝染病は貴族も平民も区別しないから伝染病から見たら人類すべてが同類である)

イスラエルキブツはメンバーの労働意欲の低下という、実に教科書通りの共産主義の問題で崩壊した。

ヒューマンネットワーク(マシュー・ジャクソン)メモ1

第2章中心性について

フレンドシップパラドクスは次数中心性が原因。

グーグル検索のページランクのような、だれを知っているか(固有ベクトル中心性)

影響力を行使する範囲(拡散中心性)の3つ

次数中心性は直接的な影響、固有ベクトル中心性は隣接ノードの次数を捕捉し、拡散中心性は情報を広める、受け取る尺度となる。

メディチ家は貴族間ネットワークの媒介中心性が極めて高い位置にいた。

 

第三章拡散と影響力

平均次数により、巨大ノードが誕生するかどうかという相転移が起こるかが決まる、基本再生産数が1以下なら巨大ノードは発生せず、伝搬しない。このあたりはパーコレーションの話っぽい

ワクチンは全員に打つ必要はない。基本再生産数を1以下に抑える程度に打てばいい。

当人が感染しないように打つのではなく、影響を断つために打つのだ。

灯台は外部性の実にいい例、あらゆる要素で外部性は働くが、同時に悪影響も及ぼす。

フェイスブック等のつながりは完全グラフの1%以下である。たったこれだけでもスモールワールド現象は起き、巨大ノードが発生するには十分である。

スペイン風邪はWW1の直後で栄養や物資の観点から人々は弱っており、部隊の移動という大規模な移動行為が伴っていたため広範囲に広がることになった。

感染を広めるのは巨大ノードそのものであって、その構成員の次数が高い存在ではない。巨大ノードがある限り伝搬は続くだろう。しかし次数が高い人間は伝搬の中心になりやすいことには変わらない。

伝染病などはコネクトを切断するようにネットワークは動くが、それとは逆に面白いうわさなどはノード密度をつなげるように動く。ネットワークによってダイナミックに変化する

 

第4章つながりすぎてつぶせない金融ネットワーク

金融ネットワークはインフルエンザのように伝搬するものは1種類ではないこと、つながればつながるほど信用度はむしろ増すこと、という点が異なる。

金融危機の伝搬で最も被害が大きいのは、間接的にしかつながっていない企業がある程度にネットワークが密で、しかしほとんどの組織がほとんどのビジネスをごく少数の取引相手だけと行う程度に接続が少ない、という微妙な状態である。金融危機の連鎖ネットワークの変則性は接触していなくても影響を受けるということ、これはケインズのいう美人投票の問題と一緒である。さらに影響力は均一ではなく、自分以外も注意を向けているだろうと多くの人が思っている人の影響が甚大である。

外部性は自己利益と社会利益の不一致とも言える。らしい。

金融市場は外部性や規模の経済が大きすぎて見えざる手の影響は及ばない。

銀行は巨大化しつつ、数は減っている。取引企業も巨大銀行と取引したがるからますます巨大になる。取引を少数の銀行に絞れば優良顧客としての地位も獲得できる。こうして巨大化した銀行が自身のリスキーな投資で失敗すれば、金融危機の起点になりかねない。また取引企業が少数になればなるほど、自身をネットワーク上の影響を受けやすい位置に置いてしまう。

EU諸国は国債をお互いに持ち合わせているため、金融危機の連鎖を招きかねない。ギリシャ危機はそのいい例であった。

金融危機はおおざっぱにわけるとドミノのように連鎖していくものと、ポップコーンのようにここが弾けていく2種類がある。どちらも同時に起きることもある。

最後に金融市場は計器のないジェット機のようなものだと表現している

 

Factfulness

1.分断本能

世界は分断されているという思い込み

分断本能を抑えるには大半の人がどこにいるかを考える

極端な数字の比較には気を付ける

上からの景色には気を付ける

 

2.ネガティブ本能

世界は悪くなっているという思い込み

ネガティブ本能を抑えるにはゆっくりした進歩はニュースになりにくい

悪い状態とよくなっている状態は両立する

過去は美化されることに気を付ける

 

3.直線本能

グラフがまっすぐだ思ってしまう本能

直線本能を抑えるにはグラフには様々な形があり、本当に直線的なのか考えてみる

 

4.恐怖本能

恐ろしいものには自然と目が行ってしまうという本能

恐怖本能を抑えるにはリスクを正しく計算すること

恐ろしさとリスクは関係ない。

 

5.過大視本能

ただ一つの数字が重要だと勘違いしてしまう本能

数字ではなく比較する、80:20ルールを使う

 

6.パターン化本能

パターン化本能を抑えるためには分類を疑う

同じ集団の中にある違いを見つける

違う集団の間の共通項を探し、分類自体が正しいのかを考え直す

違う集団の間の違いも探す

過半数は半分にすぎない

強烈なイメージは例外であると疑う

自分以外をアホだと決めつけない

 

7.宿命本能

宿命本能を抑えるにはゆっくりした変化でも変わっているということを意識する

小さな進歩を追いかける

知識をアップデートする

おじいさんおばあさんと自分の価値観がどれほど違っているか聞く

文化が変わった例を考える

 

8.単純化本能

純化本能を抑えるには様々な道具の入った工具箱を用意する。

自分の考えを検証する

知ったかぶりはやめる

同じ道具を使いまくるのはやめる

 

9.犯人捜し本能

犯人捜し本能を抑えるには誰かに責任を求める癖をなくすこと

犯人ではなく原因を探す

ヒーローではなく、社会を機能させているシステムに目を向ける

 

10.焦り本能

焦り本能を抑えるには小さな1歩を重ねること

落ち着け

 

ベーシックインカムはセーフワード

ブルシットジョブによると、ベーシックインカムは上司に「辞めてやる!」という権利を労働者に与えるという。

これはまさにファックユーマネーと同じではないか。(厳密にはファックユーインカムだが)

著者のデヴィッド・グレーバーがこのワードを知っていたかどうかは知らないが、意外なところで何かがつながった気がする。

ブルシットジョブクソどうでもいい仕事の理論 第7章

労働者は失業者を寄生虫だのなんだのと反感を抱くし、失業者は雇用者に反感を抱くし、ブルシットジョブ従事者は生産的な労働者に反感を抱くし、生産的な仕事だが、報われない労働者は、数少ない有用かつ報酬のいい仕事を独占しているリベラルエリートに反感を抱く。中間管理職は有用な仕事をしているという理由で生産的な労働者に反感を抱く。このような妬み(道徳羨望)こそが生産性と報酬の反比例の元凶かもしれない。謙虚さは、自分は謙虚ではないと思っている人間への道徳的挑戦となることもある。

この道徳羨望は様々な形で表現される。移民が怠惰だと非難される一方で、生産的な仕事を独占しているという理由でも非難される。これは貧困者にも同じように表現される。つまり、働いていなければ怠惰、働いていれば(貧困だから、給料の少ない=生産的な仕事)有用だという羨望から非難される。銀行を救済する政策が非難されつつも撤回されなかった一方で、自動車製造にかかわる人間には社会保障や給料の面で「これ以上甘えるな」と叩かれる。「あいつらは車を作ってんだぞ!俺なんかクソどうでもいい書類を1日8時間作ってるんだ。あいつらは歯科検診を受けさせろだのバカンスをよこせだの、ストライキをちらつかせやがってふざけんな!」もはやよくわからん。

共和党支持者は教職員組合を非難するが、共和党が気に入らない部分を担っているのは教師ではなく管理者である。共和党支持者はその事実を知ってもなお、管理者を叩かず、教師を非難し続けている。

 

保守的な労働者階級はお偉方ではなく、リベラルエリートを嫌っている、理由は

・エリートは平凡な人々を間抜けの大群とみているから

・エリートは閉じたカーストを形成しており、中流以下の人間にとっては資本家よりも参入がさらに困難だから

である。

どちらもだいたい正しい。アメリカ人は自分が金持ちになるのは想像できるが、文化エリートになるのはかなり困難だからだ。リベラルエリートとは金以外の目的で活動しつつも大金を稼げる地位に組み込まれている存在であり、アメリカの貴族階級のようなものであり、平民には(金を稼いだり、資本家にはなれても)到底なれない存在なのである。そんな人々にとって社会貢献と金を両立する手っ取り早い手段は軍隊である。

米軍基地は各地で地域コミュニティへの貢献として無料で小学校の修繕などを行っているが、この奉仕プログラムに参加した兵士は大変満足しており再入隊の可能性も高い「これこそが人助けだ」ということらしい。彼らが平和部隊に入れなかったのは、平和部隊の入隊条件は大卒だから、である。米軍は不満を抱いた利他主義者の避難所なのだ。

 

ケアリング労働は数値化しにくいがゆえにロボット化が最も難しい分野になるだろう。

経済とは人間の相互形成のために必要な物質を供給するための組織づくりである。諸価値とは、価値を換算できないことが価値なのである。価値と諸価値の対立が根底にあると考えられる。そして、諸価値を価値に換算しようという試みが行われている。

アメリカ人の破産の2大理由は医療と学生ローンである。

 

諸価値、ケアリング労働をグローバル経済に組み入れることはさらに問題を悪化させるかもしれない。なぜなら前述のように価値を換算できないことが諸価値の価値なのだから。ケアリング労働の生産性を高めようという試みはほぼ確実に産業化や標準化に向かうだろうし、そうなったら規模の経済が働き、ケアリング労働の賃金はますます安くなるだろう。賃金の男女格差は減ったが、実際は男性の賃金が減っただけである。

インドでのベーシックインカム実験によると家庭内暴力が減った(家庭内暴力の原因は8割がた金の問題だから)同様に、職場の金銭的問題も解決する。ベーシックインカムは労働者に「辞めてやる!」という権利を与えるものである。

労働による生産物やサービスよりも労働そのものに価値があるというのなら、たとえ穴掘りと穴埋めという仕事でもロケットの設計でも株式トレーダーでもすべて価値はすべて同じ「労働」という価値であるのだから、一律給付という形態は妥当ではないだろうか?

ベーシックインカムは最低保障ではなく、労働と生活を切り離すことが究極的な目的である。すでに40%が自分の仕事に社会的意味がないと思っているのだから、一部のワーカホリックに任せておけば十分でしょう?労働から解放された人々がバカげたyoutuberやカルト扇動者になったとしてもすでに40%が無意味な仕事で精神的暴力にさらされているのだから、何も変わらないでしょう?

労働という制約がなくなり、自分の意思で何か有用だと思うことができるようになれば、今よりも労働の配分が非効率になることはないだろう。

ブルシットジョブクソどうでもいい仕事の理論 第6章

無意味であること、価値、効用、有用性それぞれについて、意見がバラバラであることが多い。絶対的な尺度などないからだ。労働の社会的価値と経済的価値がほぼ反比例しているという事実と、その事実を一般人が広く受け入れていることは、無意味なものには報酬を、社会のために働く人には罰をと言っているに等しい。なぜそうなってしまったのか?

労働の価値についての議論抜きで労働価値説は語れない。

マルクス主義にどっぷりつかった人間はブルシットジョブを否定する

どんな仕事をしていても利潤を生んでいる限り許されるのが資本主義だ、ということらしい

再生産という概念。

再生産のためにインフラ投資や教育は重要である。というロジックを資本家はしばしばあげ、現実にインフラや教育を支持しているが、これはフェアトレードや芸パレードを支持することはそうした被差別階級を再生産することと同じでもある。

価値(Value)と諸価値(Values)はしばしば別の意義でとらえられている。前者は金銭的、後者は非金銭的である。現金主義に対してたいていの宗教は物質的欲を否定し、施しをせよ、と説くが、これは物質的利己主義と理想的利他的を分断することに等しい、しかしそれは失敗している。

ブルシットジョブ従事者の証言をまとめると、社会的価値は富や物質の生産以外に社交性という概念が見えてくる。

ベルギーの541日にわたる無政府状態でも何の問題も起こらなかった。ウーバーの経営陣が辞任しても会社は問題なく運営されている。銀行がストライキを起こしても社会不安は怒らず、その一方で、ゴミ収集人がストライキを起こした時は10日で市は音を上げた。

仕事の社会的便益と経済的価値(報酬)が反比例する理由は倒錯した平等主義にあると推測する。仕事で生み出される付加価値よりも、仕事そのものに価値があるということであり、動機や諸効果は2の次なのである。

「仕事をよこせ」とデモを行う左翼と「そんなデモをする暇があるなら仕事を探せ」という右翼はコインの表裏である。なぜならどちらの意見も、

「仕事をすることは善であり、仕事をしないことは悪である」

というコンセンサスを前提にしているからである。左翼「(善である)仕事をよこせ」

右翼「仕事をしないお前は悪だ」と言っているのだから。

 

ドイツ系のプロテスタントの影響が強い地方ほど、自己目的化した仕事に身も心も捧げ重圧を感じていないといけない、というプレッシャーが強い。労働の真の価値が「できればやりたくないこと」だとするのなら、苦痛である仕事なら高報酬を受ける価値があり、逆に余暇を割いてでもやりたい仕事には報酬をもらう資格はない、ということになる。なんという倒錯だ。

近年はボランタリアート(ネットにあふれる無料の作品)を駆り集めている企業は多い。しりぬぐいの仕事はこの無料の生産物を商用に転用することで生まれている。エンジニアは余暇に無償でコア技術の開発に勤しみ、昼間はしりぬぐいの仕事をすることになる。これは企業のコア技術への投資を減衰させ、さらにしりぬぐいの仕事が増えていく。

 

神学的には仕事の核心的意味は

・仕事とは普通は進んでやりたいと思わないものである

・仕事とは仕事を超えた何かを達成することである

 

支払い労働の概念は北部ヨーロッパで生まれた。サービス(奉仕、奉公)は北部ヨーロッパ的概念である。中世では農民から貴族までほとんどの人間が誰かに奉公していた。貴族の御姫様ですら、さらに上位のマダムの侍女を行っていた。よって、中世の人々の結婚は意外と遅かった。家族を持てる資産や持参金を作るまで結婚できなかったのだ。

このような丁稚奉公的な文化をイタリア人は驚いていたらしい。地中海世界では労働は奴隷や女性がすることであり、労働することで知的活動を行う時間が減ることはむしろ悪とされた。

貴族は奉公に出た息子が財産を継ぐに値する人間かを見極めたらしい。ここで、労働と教育が同一視される。奉公により、マナーを身に着けるということだった。これはプロテスタントの労働倫理が生まれる以前の話である。

資本主義が生まれたおかげで徒弟、一人前、親方という序列が崩れ、親方になることができなくなる層が生まれた。そしてこれは結婚が不可能ということを意味していた。当然みなが反発したおかげで結婚年齢は大幅に下がった。16世紀にはそのことを嘆くピューリタンがいた。

プロレタリアートの語源は「子供を産む人々」である。古代ローマにおいて税金を払えない最貧困の市民は徴兵以外に役に立たない人々であった。

奉公=教育の場がなくなったことで、そうした人々に道徳を教え込む必要性が出てきた。新しい神学である。労働とは罰であると同時に贖罪である。こうして労働自体が価値を持つという概念が出来上がった。これはマックスウェーバーのカルヴィニズムと資本主義の勃興にライフサイクル奉仕という概念が加わったものだ。

ラッダイト運動やチャーティスト運動が労働価値説を受け入れなかった理由はまさに金持ちを金持ちに、権力者を権力者たらしめているものはまさに貧民の労働の成果だと気づいていたから

マルクス資本論を書く35年前には「労働が富の源泉という考えは危険である。この考えは労働力を持つ人がすべての富を得て、それ以外は盗みや詐欺であると考えている人たちに格好の口実を与えてしまうだろう」という意見があった。

意外と労働価値説はイギリスよりもアメリカで盛況だった。自らを富の生産者、ブリテンの支配者を略奪者と考えていたようである。

リンカーンはライフサイクル奉公の概念が、アメリカの発展のおかげで、復活したと述べていた。住み込みではない、という若干の違いはあれど。

アメリカの政治家たちはこれを理想化しており、当時は公共の便益を証明できない限り資本家になれなかったのだった。

労働価値説は生産に重きを置きすぎた。今も昔も労働者は製造業のような生産活動だけをしているのではなく、ゴミ収集や運転手などのケアリング労働をしてるのである。そして商品としてのケアリング労働には一方はケアするが、もう一方はケアしなくてもよいという非対称的な側面がある。労働を生産に限定しすぎてしまうと、ケアリング労働は労働者というカテゴリから外れてしまうのである。そしてケアリングとは本質的に何かを保守するということであるので、保守層との相性がいいのである。これがケアリング階級にいる人間がなかなか反乱を起こせない理由となっている。

墓石に肩書が刻まれることはないが、生きてる間は初対面の人間に「何の仕事をされているのですか?」と聞かれる社会である。何者か=職業が重要視される社会では自らの生に意味を与えてくれるのは仕事であり、失業は精神に破滅的な影響を及ぼすというのは一般的風潮として存在する。

それゆえに苦痛に満ちた仕事でも受け入れなければならない