Purity of essence

文芸全般、主に映画と書評です

投資家という存在が許される理由

ある日、とある投資家Aが1時間で10万円を稼ぎ、悠々と昼食をとっていた

一方、あるコンビニ店員Bは給与明細に書かれた1か月分の賃金10万円を苦々しい気持ちで眺めてから時計を見た。10時間後に勤務が始まる。

 

これだけ見れば何とも不公平な話だ。

しかしこう考えてみる。

ある日某国の指導者が暗殺され、マーケットは大荒れに荒れ、投資家Aは1週間で総資産の5割を失った。テレビからは各国の非難声明が乱れ飛び、事態が悪化の一途をたどるニュースが流れてきた。やれやれ、来週はさらに損失が膨らむことになりそうだ…

一方、コンビニ店員Bは自粛と有事の買い占めで空っぽになった店内を眺めていた。今まで見たことのない新鮮な光景だ。ここ1週間で数えるほどの客しか接客していない。ここまで楽な仕事があるだろうか?

勤務時間を終えると、彼は唯一売れ残った酒を買い、店長の真っ青の顔を眺めつつ帰路についた。

 

こうしてみると、投資家はリスクとリターンどちらも受け入れたうえで金を稼いでいるが、コンビニ店員にとっては自己資産についてはリターンしかなく、勤務先がどれだけ損失を増やそうと自分の資産が減ることは絶対にない(自爆営業という別の問題もあるが)

もちろん勤務時間は犠牲にしているし、失職するかもしれない。

だがそれは投資家も同じで、投資家は投資判断のためにニュース記事を読み漁り、本を読み、じっくり時間をかけてポートフォリオを構築しなければならない。そして資本金がなくなることは投資家としての職を失うも同然だろう。

 

このように、きちんとリスクを抱えているからこそ、莫大な金を稼いでいても投資家はギリギリのところで社会的に許されるんだと思う。